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37件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2011-07-27 第177回国会 衆議院 厚生労働委員会 第23号

ですから、科学者の中で、私が育ってきた分野素粒子論研究グループで、湯川秀樹先生とか朝永先生とか坂田先生、そういう方々はすごく民主的で、一介の大学院生でもきちんとした議論をしていればそれに耳を傾けるという姿勢がありました。私は、学会の民主化というのは極めて重要だと思います。  

沢田昭二

1999-02-09 第145回国会 衆議院 科学技術委員会 第2号

戦前はむしろ逆でありまして、戦前は、湯川先生にしても朝永先生にしても、あるいは八木アンテナにしても、随分基礎的なものが日本であったと思う。ですから、私は、日本人基礎研究、独創的な研究に向いていないとは思わないのです。  ただ、戦前と戦後でかなり雰囲気が変わりました。戦後の方は、グループをつくって、そこで新しい知識をどんどん発展させるというふうな傾向にあったと思います。

有馬朗人

1997-05-20 第140回国会 衆議院 文教委員会 第13号

湯川先生がアメリカからノーベル賞をもらって帰ってこられた直後に、基礎物理学研究所で、当時の山口氏を中心とした若手とそれから坂田朝永先生たち湯川先生は中立でおられたと思います、そこで任期制をめぐって論議があったことは事実であります。しかしながら、そこで坂田先生は初めは慎重論を唱えておられたけれども、納得された上でいち早く名古屋大学では任期制を導入されたということを 申し上げておきましょう。

有馬朗人

1989-06-20 第114回国会 参議院 文教委員会 第4号

日本核物理学素粒子物理学というものは理論面では戦前から物すごい高いレベルになって、湯川先生でございますとか朝永先生のようにノーベル賞をもらわれる方まで出たけれども、実験物理の方は装置がないために全然進んでいなかった。そういう大型のものをつくろう、こういうことになってまいります。そうしますと、従来の所轄研方式でございますとか大学附置研方式ではどうしてもおさまり切らない。

川村恒明

1986-05-09 第104回国会 参議院 科学技術特別委員会 第7号

それから、服部先生は先ほど朝永先生のお話を御引用になりました。私はもう少しその辺のところを、軍事目的研究というものが秘密のベールの中へ包まれていくと科学の進歩には長い目で見たらかえってマイナスだという意味、わかるような気もいたすのでありますけれども、もう少し詳しく教えていただいたらありがたいと思っております。  それから、服部先生にはもう一点お伺いしたいと存じます。

稲村稔夫

1986-05-07 第104回国会 参議院 科学技術特別委員会 第6号

文部省方々が来ておられると思うんですが、文部省の方では従来古くからある大学附置研というのと、途中から戦後になって始まりました共同利用研、これは亡くなられた朝永先生が非常に熱心で、プリンストン高級研究所に留学された経験からして、一つの大学にくっついている研究所というものは要するに刺激がなさ過ぎてよくない、オープンにして多くの大学先生方が出入りできるような研究所をつくるべきだという、そのプリンストン

伏見康治

1985-04-19 第102回国会 参議院 科学技術特別委員会 第6号

その応用研究、特にいわゆる先端技術に密接したような技術についてはいろいろ政治的な問題があって、そういうことにかかわり合いのある学問の分野の方は御遠慮願うということはそれはあり得ることだと思うんですが、この理論物理学、例えば湯川先生とか朝永先生がやっておられたような理論物理学分野先生にもビザが出ないといったような雰囲気は非常によろしくないと私は考えます。  

伏見康治

1985-04-19 第102回国会 参議院 科学技術特別委員会 第6号

私の駆け出しの科学者であったころの気分から申しますというと、若さこそ創造性の宝だというふうに考えていたわけでして、殊に理論物理学なんていうのは、湯川朝永先生の例を考えてもわかりますように、二十代に一仕事しておかなけりゃ後は到底ろくな仕事にならぬということが常識になっていたわけです。

伏見康治

1981-04-07 第94回国会 参議院 文教委員会 第5号

局長さんも御存じのように、湯川先生とか朝永先生ノーベル賞いただきましたりっぱな先生ですが、この先生客員教授でこの理化学研究所へ所属しておったわけですね。そして、すばらしい研究を進めていっているという実態なんですね。そういう意味で、私は残念ながら、いまここに提案されているそれぞれの研究所には行ったことはございません。

小西博行

1980-05-14 第91回国会 衆議院 文教委員会 第16号

ただ当時は、いまは故人になられましたけれども、お隣の武蔵野市にお住まいの朝永先生が、これからの科学研究の上には欠かせない研究所であるし、安全については万全を期すからという非常に御熱心な御説得等もあって、当時の住民あるいは市当局も一応納得をして、そしてあの研究所が発足した、こういう経過があるわけであります。

長谷川正三

1980-03-26 第91回国会 衆議院 科学技術振興対策特別委員会 第5号

特に朝永先生は毎回欠かさず御出席くださいまして、非常に熱心に審議に加わっていただきましたが、この報告をまとめられました直後から御病気が悪くなられまして、御承知のように、とうとう不帰の客になられたわけでございます。  この意見の中で重要な点は、非常に簡単なものでありますが、三つほどあります。  

中島篤之助

1977-05-24 第80回国会 参議院 社会労働委員会 第11号

政府委員佐分利輝彦君) 昭和四十二年の朝永先生学術会議の会長の時代の、ただいま御説明がございましたような勧告はよく承っております。  そこで、厚生省といたしましては、まず手近かな問題といたしまして、原爆の被爆者健康手帳の保存につきましてはへ通達を出して確保をいたしております。  

佐分利輝彦

1976-10-14 第78回国会 参議院 文教委員会 第2号

まず、湯川先生は宿題がなかったのがよかったというのが小学校の思い出であり、朝永先生の場合には、裏の山に行っていろいろな石を集めたのが理科的なものへの関心というものを、そして創造的な考えを生むようになった第一歩である。江崎玲於奈氏の場合には、小学校の教育で理科のときに実験を楽しむことができた。

永井道雄

1976-02-12 第77回国会 参議院 文教委員会 第3号

朝永先生の場合は先生の母校と関係ありますが東京教育大学、当時の文理大の方にお移りになった。そこで、正田先生はやはり東大、京大の独立大学院へ強化していくときに、どうしても自分たちの仲間だけで固まりますと刺激が乏しくて、そうして知的な交流から起こるところの活発さが期しにくい側面があるのではないか。

永井道雄

1975-06-20 第75回国会 参議院 科学技術振興対策特別委員会 第5号

それはなぜかと申しますと、住民との間で一番最初に原子核研究所をおつくりになるときに、朝永先生がみずから住民と会われて、これはわれわれはこういうふうにしてやると、確かに危ないものなんだけれども、われわれはこういうふうにしてやるから納得してほしいということで、いわゆる合憲がやはりできておる。

中島篤之助

1975-06-11 第75回国会 衆議院 文教委員会 第15号

大学院学生というのは大体二十歳代の後半から三十歳近くになるのですが、そのころが実は日本人の、特に私の専門でございます物理分野のようなところでは一番仕事のできるところでございまして、また湯川朝永先生の例を出しますと、お二人がノーベル賞をもらわれた仕事というのは、みんな三十歳前後につくられたお仕事のわけです。

伏見康治

1975-06-11 第75回国会 衆議院 文教委員会 第15号

つまり、湯川朝永先生が育った京都大学湯川朝永先生よりも偉い先生がいて育てたわけではないのであって、湯川朝永という二つの天才が自由に伸び得るような環境をつくっておられたということであろうと思います。旧制の大学というのは、そういう意味で入ってくる学生が独立して考えられることを期待して成立していたわけです。

伏見康治

1975-03-17 第75回国会 参議院 予算委員会 第10号

去年の十一月三日に江崎玲於奈博士文化勲章を取りに日本に帰られて、そのあとで京都で江崎朝永湯川、三先生小学校時代の回顧という討論会があったのですが、それは非常におもしろいものでありまして、朝永先生によると、小学校時分はしょっちゅう裏の山に遊びに行って、いろいろな石を探して勉強した。そうすると、どろぼうと間違えられて追い回されて困ったと言うのです。

永井道雄

1968-04-12 第58回国会 衆議院 文教委員会 第9号

それについては振興会のほうからもお聞きしたいのでございますが、朝永先生のほうからお聞きしたいのは、このような学術の国際的な協力事業について、当然日本学術会議としても正式に討議され、この上に立って研究が毎年進められており、その結果の取り扱い等についても、まあ研究の結果の正しいルールというのですか、私はよくわかりませんが、そういう研究結果の発表やその他について、どういうような形によって発表されておるのでございますか

唐橋東

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