2011-07-27 第177回国会 衆議院 厚生労働委員会 第23号
ですから、科学者の中で、私が育ってきた分野は素粒子論研究のグループで、湯川秀樹先生とか朝永先生とか坂田先生、そういう方々はすごく民主的で、一介の大学院生でもきちんとした議論をしていればそれに耳を傾けるという姿勢がありました。私は、学会の民主化というのは極めて重要だと思います。
ですから、科学者の中で、私が育ってきた分野は素粒子論研究のグループで、湯川秀樹先生とか朝永先生とか坂田先生、そういう方々はすごく民主的で、一介の大学院生でもきちんとした議論をしていればそれに耳を傾けるという姿勢がありました。私は、学会の民主化というのは極めて重要だと思います。
つい二、三年前にノーベル賞をもらった朝永先生の量子電気力学で電子、陽電子の振る舞いは全部正確に分かっとる、だから、そんなのをぶつけて実験、今更実験しても量子電気力学はやはり正しかったという証明をするだけだ、意味はないと、こう言って反対されちゃったんです。
戦前はむしろ逆でありまして、戦前は、湯川先生にしても朝永先生にしても、あるいは八木アンテナにしても、随分基礎的なものが日本であったと思う。ですから、私は、日本人が基礎研究、独創的な研究に向いていないとは思わないのです。 ただ、戦前と戦後でかなり雰囲気が変わりました。戦後の方は、グループをつくって、そこで新しい知識をどんどん発展させるというふうな傾向にあったと思います。
湯川先生がアメリカからノーベル賞をもらって帰ってこられた直後に、基礎物理学研究所で、当時の山口氏を中心とした若手とそれから坂田、朝永先生たち、湯川先生は中立でおられたと思います、そこで任期制をめぐって論議があったことは事実であります。しかしながら、そこで坂田先生は初めは慎重論を唱えておられたけれども、納得された上でいち早く名古屋大学では任期制を導入されたということを 申し上げておきましょう。
日本の核物理学、素粒子物理学というものは理論面では戦前から物すごい高いレベルになって、湯川先生でございますとか朝永先生のようにノーベル賞をもらわれる方まで出たけれども、実験物理の方は装置がないために全然進んでいなかった。そういう大型のものをつくろう、こういうことになってまいります。そうしますと、従来の所轄研方式でございますとか大学の附置研方式ではどうしてもおさまり切らない。
朝永先生がまとめられまして、三月二十日付で朝永振一郎先生のお名前で第三十九委員会の藤岡由夫先生に提出されました「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」というものの中にもこういうことが述べられております。
それから、服部先生は先ほど朝永先生のお話を御引用になりました。私はもう少しその辺のところを、軍事目的の研究というものが秘密のベールの中へ包まれていくと科学の進歩には長い目で見たらかえってマイナスだという意味、わかるような気もいたすのでありますけれども、もう少し詳しく教えていただいたらありがたいと思っております。 それから、服部先生にはもう一点お伺いしたいと存じます。
文部省の方々が来ておられると思うんですが、文部省の方では従来古くからある大学の附置研というのと、途中から戦後になって始まりました共同利用研、これは亡くなられた朝永先生が非常に熱心で、プリンストンの高級研究所に留学された経験からして、一つの大学にくっついている研究所というものは要するに刺激がなさ過ぎてよくない、オープンにして多くの大学の先生方が出入りできるような研究所をつくるべきだという、そのプリンストン
その応用研究、特にいわゆる先端技術に密接したような技術についてはいろいろ政治的な問題があって、そういうことにかかわり合いのある学問の分野の方は御遠慮願うということはそれはあり得ることだと思うんですが、この理論物理学、例えば湯川先生とか朝永先生がやっておられたような理論物理学の分野の先生にもビザが出ないといったような雰囲気は非常によろしくないと私は考えます。
私の駆け出しの科学者であったころの気分から申しますというと、若さこそ創造性の宝だというふうに考えていたわけでして、殊に理論物理学なんていうのは、湯川、朝永先生の例を考えてもわかりますように、二十代に一仕事しておかなけりゃ後は到底ろくな仕事にならぬということが常識になっていたわけです。
湯川先生にしたってそうだし、朝永先生だって客員教授ということで、大学から入っていったわけでしょう。何ら私は変わりがないんではないかという素朴な疑問があるんですが、それに対してはどういうようにお考えでしょうか。
局長さんも御存じのように、湯川先生とか朝永先生、ノーベル賞いただきましたりっぱな先生ですが、この先生も客員教授でこの理化学研究所へ所属しておったわけですね。そして、すばらしい研究を進めていっているという実態なんですね。そういう意味で、私は残念ながら、いまここに提案されているそれぞれの研究所には行ったことはございません。
そのことを朝永先生ははっきり耳に残されておりまして、私どもにも、亡くなられる前、会われたときはしょっちゅうそういうことを話しておられました。だから、自分はもう核廃絶のための軍縮に非常に熱心になっているんだということを言われていたわけです。
ただ当時は、いまは故人になられましたけれども、お隣の武蔵野市にお住まいの朝永先生が、これからの科学の研究の上には欠かせない研究所であるし、安全については万全を期すからという非常に御熱心な御説得等もあって、当時の住民あるいは市当局も一応納得をして、そしてあの研究所が発足した、こういう経過があるわけであります。
特に朝永先生は毎回欠かさず御出席くださいまして、非常に熱心に審議に加わっていただきましたが、この報告をまとめられました直後から御病気が悪くなられまして、御承知のように、とうとう不帰の客になられたわけでございます。 この意見の中で重要な点は、非常に簡単なものでありますが、三つほどあります。
○政府委員(佐分利輝彦君) 昭和四十二年の朝永先生が学術会議の会長の時代の、ただいま御説明がございましたような勧告はよく承っております。 そこで、厚生省といたしましては、まず手近かな問題といたしまして、原爆の被爆者健康手帳の保存につきましてはへ通達を出して確保をいたしております。
まず、湯川先生は宿題がなかったのがよかったというのが小学校の思い出であり、朝永先生の場合には、裏の山に行っていろいろな石を集めたのが理科的なものへの関心というものを、そして創造的な考えを生むようになった第一歩である。江崎玲於奈氏の場合には、小学校の教育で理科のときに実験を楽しむことができた。
朝永先生の場合は先生の母校と関係ありますが東京教育大学、当時の文理大の方にお移りになった。そこで、正田先生はやはり東大、京大の独立大学院へ強化していくときに、どうしても自分たちの仲間だけで固まりますと刺激が乏しくて、そうして知的な交流から起こるところの活発さが期しにくい側面があるのではないか。
それはなぜかと申しますと、住民との間で一番最初に原子核研究所をおつくりになるときに、朝永先生がみずから住民と会われて、これはわれわれはこういうふうにしてやると、確かに危ないものなんだけれども、われわれはこういうふうにしてやるから納得してほしいということで、いわゆる合憲がやはりできておる。
大学院の学生というのは大体二十歳代の後半から三十歳近くになるのですが、そのころが実は日本人の、特に私の専門でございます物理の分野のようなところでは一番仕事のできるところでございまして、また湯川、朝永先生の例を出しますと、お二人がノーベル賞をもらわれた仕事というのは、みんな三十歳前後につくられたお仕事のわけです。
つまり、湯川、朝永両先生が育った京都大学に湯川、朝永先生よりも偉い先生がいて育てたわけではないのであって、湯川、朝永という二つの天才が自由に伸び得るような環境をつくっておられたということであろうと思います。旧制の大学というのは、そういう意味で入ってくる学生が独立して考えられることを期待して成立していたわけです。
去年の十一月三日に江崎玲於奈博士が文化勲章を取りに日本に帰られて、そのあとで京都で江崎、朝永、湯川、三先生の小学校時代の回顧という討論会があったのですが、それは非常におもしろいものでありまして、朝永先生によると、小学校時分はしょっちゅう裏の山に遊びに行って、いろいろな石を探して勉強した。そうすると、どろぼうと間違えられて追い回されて困ったと言うのです。
朝永先生、ありがとうございました。
それについては振興会のほうからもお聞きしたいのでございますが、朝永先生のほうからお聞きしたいのは、このような学術の国際的な協力事業について、当然日本学術会議としても正式に討議され、この上に立って研究が毎年進められており、その結果の取り扱い等についても、まあ研究の結果の正しいルールというのですか、私はよくわかりませんが、そういう研究結果の発表やその他について、どういうような形によって発表されておるのでございますか
○西岡委員 唐橋委員の御質疑に関連いたしまして、科学研究費の配分問題について、二、三点朝永先生にお尋ねをいたしたいと思います。